嫌われる理由は自分からは見えない

DIARY

知人の話を聞いていて、知人の話より見ず知らずの知人の気持ちに共感することがあります。

知人は

わたしって可哀想

でも乗り越えていく!

みたいなテンションで話します。

実際、知人に落ち度はそんなにありません。

ただ、わたしは知人の悲しみの原因になっているお相手が、知人を嫌っているのがわかります。

ここで「友人」ではなく「知人」と書き続けている程度、わたしはその人に好感をもっていないので、トラブルの相手のお気持ちのほうに共感できます。

上述の「知人」にあたる人物は複数名います。

好感を持てない理由の言語化は難しいのですが、共通して言えることを端的に言うと…

うざい

感じです。

たとえば頼まれてもいないのに自分から関わりにいって相手のためにやった気になって、それでいて感謝されないことにモヤッとしたり…

そんな仲裁ならわたしも絶対入ってほしくないんだが…と思いつつ、知人は善意100%でやっているし、それを「ヨシヨシ」してくれる人に囲まれているし、わたしのように思ってもそれをご親切に本人に伝える人はいないし、両者の溝は埋まらないんだろうなぁ

されると助かる介入と、されると嫌な気持ちになるお節介

この境界線が人によってまちまちだから噛み合わないふたりの歯車。

わたしが嫌な目に遭うときも、きっと同じ。

わたしが相手に嫌われるような言動をしているので、相手に反発を受ける。

でもわたしは悪気があってしていることでもないし、なにが相手の癪に障ったか見当もつかず、そもそも自分に落ち度があるとも思わず、その相手を「性格の悪い人」と結論付ける。

極力コミュニケーションすくなに生活できたら摩擦は減って楽なんだろうけど、人間は集団の力で発展を遂げた生物だし、年を取ってできないことも増える都合、コミュニケーションなしで独りで生きることはできない

結局摩擦も人生経験ですな

川の石っころのように老齢のころにまんまるになるための 修行。

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