先日この記事に書いた「なんとなく嫌いな人」(以下:眉薄さん)について共通の知人と話しました。
知人は眉薄さんに対してニュートラルな立場。
眉薄さんのことを「なんとなく嫌い」なわたしと違って、眉薄さんに一方的にネガティブな愚痴をこぼされるなど嫌いになる要素は大いにあるけれど、知人はメンタルコントロールのプロフェッショナルなので「合わない」までも「嫌い」ではないそう。
そんなプロフェッショナルな知人に
なぜわたしは眉薄さんを嫌いなのか
見解を尋ねてみました。
プロフェッショナルな知人曰く、眉薄さんは不満をたくさん抱えていて、ネガティブなオーラに満ちている。
それは彼女と話す機会もなく、人情の機微に疎いわたしですら感じ取れるほど強い。
刃を突き立てられてはいないが、あなたは眉薄さんの刀の鞘を鳴らす音を聞き取っていて、それに恐怖と不快感を抱いている。
・・・ほぉ!
それっぽい
きっとそう。
ちなみにバイタリティと行動力に満ちているプロフェッショナルな知人は、眉薄さんのように一生不満ばかりをぶつぶつリピートして行動には一切うつさない正反対のタイプにイライラしたり、相手にするのを退屈に思ったりしないのかしら?
そういうタイプの人(一生不満ばかりをぶつぶつリピートして行動には一切うつさない)と話す時間が近頃少し増えて、わたしも大概いい顔しいなので親身に聴くフリをするものの内心退屈すぎるので参考にしたく聞いてみた。
確かにずっと不満を言っているし、そればかりを聞いていたら退屈。だからわたしは「それでどうしたい?」「どうしたらよくなると思う?」と聞く。そうしたら彼女の考えなりアイディアなり、別の面を見ることができ、それを楽しめる。
・・・ほぉ!
プロフェッショナルな知人は視えてるなぁ
そして、本人も言っていたけれど「人が好き」だ。
「人が好き」「人に興味を持てる」は才能の一種。
さて、大人のコミュニケーションで大事な雑談力。
雑談力のある人とはどうでもいい話をたくさんできる人であるというようなつぶやきを先日見かけたけれど、その通りだと思う。
人間社会の中で「話し合いして決定までする必要のあること」って意外と少ないと生活していて思う。
つまり、話さなければならないこと以外で上手に会話をまわせる人がコミュニケーション力の高い人だろう。
さらに高度になると、雑談で得たそのときはなんでもなかったような情報をのちのち利用する機会を作れたりして。
そうなりたいか?と考えてみると、天性の才として備わっていればラッキーだけれど、目指すとなると苦労が多そう。
だれとでも話せる、話して楽しいと思える方、それアタリの才能ですよ!
おめでとうございます。
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